Return to Table of Contents, "Two Years in Salem as a 60 Year Old Student"
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国民の祝日
1. New Year's Day
留学した最初の年、冬休みを利用して一週間一時帰国しました。正月を日本で迎えたかったんですがデルタ航空で帰りのチケットが元旦以降の日にちが取れず、やむを得ず大晦日にセーレムに帰ってきました。時差が17時間ありますから、成田を31日の夕方出発するとポートランドへ同じく31日の朝10時ごろ着きます。私は機内で眠れませんので時差ぼけになり早めに寝ましたが、夜中に花火の音が聞こえ騒々しいので目がさめ、時計を見ると12時です。アメリカ人も大晦日はパーティーなどして年が開けるまで起きているようです。祝日の元旦はテレビでフットボールのゲームを見たりしてのんびりする人が多いようです。2日から仕事が始まりますが、Chemeketa Community Collegeは第一月曜日から冬学期が始まります。2000年は3日の月曜日から始まる予定が、コンピューターの2000年問題で、その日は先生方と職員がコンピューターをチェックすることになり、授業開始は翌日にずれました。
2. Martin Luther King Day
黒人市民権運動家であるマーチンルーサーキングの誕生日。1月の第3月曜日ですが実際に生まれたのは1月15日です。15年ぐらい前に設定された比較的新しい国民の祝日です。ESLのクラスで、この人のプロフィールを講義され、試験に出されましたので、この祝日は忘れられません。
3. Easter Sunday
キリストの復活祭。この日は日曜日でありもともと休みなので、気がつきませんでしたが、月曜日に学校で必要だったものをある店に買いに行ったところイースターのため休みでした。他の心当たりの店にも行きましたがやはり休みで、がっかりした憶えがあります。年によって日にちが異なり詳しくは知りませんが、3月後半から4月にかけての特定の日で満月に関係あるようです。
4. Memorial Day
戦没者記念日。5月の最終月曜日。いよいよ夏になるのを感じさせる休日でオレゴンの人達が待ちわびている日です。日本で学生が6月1日に一斉に上着を脱いで登校するのを思い浮かべます。テレビで軍隊のパレードを見ながら、アメリカ人はなんとパレードが好きなんだろうと思いながらソファーに寝転んでいたのを思い出します。
5. Independence Day
アメリカ独立記念日。7月4日。一週間ぐらい前から花火が店頭の目立つ場所に並べられ売られています。臨時テントを張って花火を売っているところもあります。花火大会もあり、非常に華やかな日に感じられました。私のアパートでは管理人から数日前に危険で、うるさいと言う理由で敷地内花火禁止のチラシが各戸に配られました。
6. Labor Day
労動者の日。9月の第一月曜日。義務教育の公立学校はこの日が夏休みの最終日。市民はこの日に夏の名残を感じるようです。Chemeketa Community Collegeは9月の第3月曜日に秋学期が始まります。
7. Halloween
10月31日。この日は国民の祝日ではありませんが、死者の霊を祭る、という意味では、日本のお盆に通ずるものがあるお祭りです。この夜には、死者や先祖が帰ってきて、又妖鬼や魔女が夜を徹して浮かれ騒ぐと言い伝えられてきました。ですから、Jack-o'-lanternというカボチャの中身をくりぬいて目、口、鼻の形に穴をあけ、中にローソクをともした、お化けちょうちんを窓際に置いて魔よけにしました。今では、そのお化けの部分がふくらんで子供たちの悪ふざけが許される楽しいお祭りになっています。
子供たちは学校が終わると魔女や幽霊の仮面や衣装をつけ、近所をまわって“Trick or treat!”(ご馳走しないと、いたずらするぞ)と言ってお菓子をねだります。数日前からスーパーではカボチャの大売出しがあり、道路際の畑ではカボチャの直売をしています。ESLの我々のクラスでは2人に一個の割合でカボチャを与えられ、Jack-o'-lanternを作らされましたが、楽しい思い出になっています。
留学した年の10月31日、友達と遊びに行って夜7時ごろ帰宅しました。しばらくするとバタバタと階段を上ってくる音が聞こえ、なにやら叫んでいるようです。このアパートの階段は2軒ごとにあり、これは私と私の向かいの家庭専用になっていますので、向かいは現在空いていますから、誰かが私のところへ来るのは間違いありません。ドアをノックされましたので開けますと3人の着飾った子供たちが立っていまして、“Trick or treat!”と叫び始めました。後ろには母親らしい人が微笑みながら立っています。子供たちはそれぞれ、すでに集めたお菓子の入ったバスケットを持っています。
私はHalloweenについては知っていましたが、まさかアパートまでやって来るとは思いませんでしたし、一人暮らしの私のところまで来るとは想像もしませんでした。スーパーではHalloween用のお菓子の特売があり、買おうと思えば安くたくさん手に入りましたが、私には関係ないものとして見てきましたので、アパートには何の準備もしておりませんでした。
3人の子供たちには、インスタントラーメンの買い置きが6個ありましたので、2個づつそれぞれのバスケットに入れてあげますと、御礼を言いながら喜んで引き揚げました。10分ぐらいすると、又別の子供たちがやって来ました。大人が後ろに付いて来ていますので無下に追い払うわけには行きません。お酒のおつまみとしてチーズを買ってありましたので、それを全部配りました。ここで頭をよぎり出したのは、第3、第4のグループが来たら、どうしようかと言う心配です。台所をくまなく調べてみますと、スライスハム、生卵、魚の缶詰、缶ビール、テレビディナー(冷凍食品)だけしかありません。スライスハムを剥き出しのまま渡すわけには行きませんし、卵は割れやすい。缶ビールならたくさん有りましたが子供たちには不適当と思いました。3番目のグループがやってきましたので缶詰を与えました。4番目のグループにも缶詰を配りました。5番目、これが最後のグループでしたが、4人おりましたのでテレビディナーを4つ与えました。時計を見ると9時近くになっていましたが、子供たちに襲撃されて降参させられた様な、好奇心を刺激されて楽しんだような、複雑な気持ちを味わいました。
この出来事を、毎週提出しなければならなかったJournalに書いて、ESL Writingのクラスの先生であるLois Rosenに出しましたが、まずお菓子の準備をするよう教室で生徒に知らせなかったのを詫びてから、私のJournalを非常に面白がって、翌年のHalloween前に生徒たちに見せたいから、タイプしてエッセイとして再提出するよう指示され、その様にしました。
翌年、親善協会の皆さんもご存知のMako Mayfieldさんからエッセイのことを言われびっくりしましたが、彼女はLoisと友達だったのです。私が受けたESL Grammar IとIIの先生であるMarylin Prothero、ご主人はウィラメット大学の教授ですが、この人もMakoさんの親しい友達です。Makoさんの顔の広さには、あちこちで感心させられます。ちなみに、Chemeketa Community Collegeの経営学の先生であるBerman ArthurさんはSister city committeeのメンバーです。
8. Veteran's Day
11月11日。復員軍人の日。黙祷、国旗掲揚、無名戦士の墓での儀式、又、オレゴンのAlbanyというところではパレードも行われました。1999年は日本の年号ですと平成11年で、11という数字が三つ並びます。この覚えやすい又と無い日に、何か記念になる様な変わった事をやろうと数日前から思い巡らしていましたが、良い考えが浮かばず、当日は雨がしとしと降っており、憂鬱な1日を悶々として過ごした記憶があります。
アメリカでは軍人が特別に優遇されているように感じます。5月のMemorial Dayを含め、年間8日しかない国民の祝日の2日を軍人関連で占めています。聞くところによると、高校卒業後、ある一定の年数軍隊に従事すると、退役後10年以内であれば公立の大学の授業料が無料である等、さまざまな恩典があるようです。定年まで勤め上げた退役軍人は広い敷地の広い家に住み、優雅な生活を送っているように私には見えます。かなり良い恩給をもらっているに違いありません。
9. Thanksgiving Day
感謝祭。11月第4木曜日。英国から宗教の自由を求めて新大陸にやってきたピルグリムファーザーズに由来し、秋の収穫に感謝の祈りを捧げる祭日です。伝統的な七面鳥やパンプキンパイ等、数日前から大ご馳走を準備します。Chemeketa Community Collegeでは全ESLクラスを対象に特別行事が行われ、生徒たちはそれぞれの国の伝統料理を持って集まります。色々な国の料理を楽しみながら、各国ごとにパフォーマンスを舞台の上で演じますが、我々日本人グループは坂本九の“上を向いて歩こう”を合唱しました。この歌は当時スクヤキソングと名を変えアメリカで100万枚を越す大ヒットをした曲です。行事の最後を飾るのは全員を対象とした延々と続くダンスですが、メキシコや中南米の人達は、実に楽しそうに踊りまくっています。先生たちも威厳とか年は関係なしに、浮かれて踊ります。とても真似の出来ない自分を情けなく感じました。
留学した最初の年は、あつ子さんの家に招待され、他の日本人留学生2人と出かけましたが、あつ子さんの近所のドイツ系アメリカ人夫妻も招待されており、午後4時ごろから軽くシェリー酒を飲み始めました。感謝祭の伝統料理が次から次へと食卓を飾り、少食の私にとってはいろいろな種類の料理を少しづつ味を見るのがやっとでした。9時ごろまで宴会は続き、アメリカの家庭での盛大なパーティーを実感できました。次の年は、早くから、とみ子さんのところでパーティーをすると決めていましたが、あちこちから招待され、感謝すると共に断るのを申し訳なく思いました。特に、あるESLの先生が親戚に加えて生徒の中で私だけを招待してくれましたが、本当にありがたく、わたしの身が二つあったらと思いました。とみ子さん宅でのパーティーは主に日本人留学生達で、アメリカ人はとみ子さんのご主人のSteveだけです。日本語ならどんな込み入ったことでも表現できます。お酒を飲みながら日本語を思いっきり喋られるという事はここアメリカでは非常に楽しいことで、皆でわいわい言いながら時の経つのも忘れはしゃぎました。Steveが用意した、言葉を当てるゼスチュアーゲイムに似たアメリカのゲームが面白く、真夜中まで遊び興じました。
10.Christmas Day
12月25日。ほとんどの家庭が家の中にクリスマスツリーを飾り、その下に12月の中ごろから集まってくるプレゼントが積み込まれ、クリスマスイブ迄にはいっぱいになります。12月25日の朝、家族揃って、あるいは親戚も加わって、一つづつプレゼントを開けるのが儀式のようになっているようです。一般家庭で家の外に豆電球を使ったきれいな飾り付けがあちこちで見られます。家の輪郭を電飾したり、電飾でトナカイのそりに乗ったサンタクロースを形作ったり、お城をイメージしたり、さまざまな色とりどりの飾り付けが見られます。ある地区では全部の家が参加して外を電飾する所もあり、夜、車を運転していて、あまりの美しさについつい速度を落としたり、止めて見とれたりします。
ダウンタウンももちろんきれいです。オレゴン州の議事堂の中には特大のクリスマスツリーが設置され、一般の人に公開しています。そこでは中学生、高校生の団体が、学校別に行っているようですが、毎日クリスマスキャロルを合唱しています。私も友達と見に行きましたが、クリスマスの雰囲気の中にどっぷりと浸かっているという感じを与えてくれます。
しかしながら、12月24日のクリスマスイブの日、友達2人のクリスマスプレゼントの買い物に付き合った時のことは忘れられません。午後4時過ぎにランカスターモールに出かけ、未だ時間が早いからとコーヒーを飲んでいたら、5時に閉まってしまいました。買い物が終わっていないのでダウンタウンのセーレムセンターと言うショッピングモールに車を走らせて行ってみると、5時半で終わっていました。普段活気のあるダウンタウンもこの時は、レストランは開いておらず、もちろん商店も閉まっています。閑散としていて、日本と違い、ここでは外でクリスマスイブを祝うことが出来ないのが良く分かりました。
おわりに
1998年9月1日にアメリカに入国、その年の年末冬休みを利用して1週間帰国しました。翌年の夏休みに1週間帰国しワイフを連れてアメリカに戻り、車を運転してヨセミテ国立公園に1週間かけて旅行しました。正月を日本で過ごすため1999年の年末から2000年1月2日まで1週間3度目の一時帰国をしました。2年間の学校生活を終えた8月、ワイフに日本から来てもらい、バスと飛行機を使った15日間のパックツワーに参加し、ロスアンゼルス、ディズニーランド、ユニバーサルスタジオ、サンディエゴ、ラスベガス、グランドキャニオン、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンDC、ナイアガラフォールズ、トロント、モントリオール、ボストン等を旅行した後セーレムのアパートに戻り、盛大な送別会を開いてもらい、2000年9月6日にアメリカを出国しました。
2年間のセーレム滞在は今から振り返って見ると、あっという間に終わってしまった感じですが、得たものは大きかったと思います。誤算だったのは2年間アメリカに居れば英語はペラペラになるだろうと思っていたことです。私の場合は一人でアパートに住み、日本人のよき友達が周囲に多く居り、その人達と付き合うのが楽しかったので英語力が思った程伸びなかったかもしれませんが、後悔はしていません。もし英語力の向上にこだわるなら、アメリカ人の家庭にホームステイするのをお勧めします。ホストファミリーとの交流等、又私とは違った体験になるでしょう。もし圧倒的に多い若い留学生に体験談を書かせるなら、又これも私とは別のものになるでしょう。
私は定年後そのまま日本にいたら絶対に経験できないだろう数々の体験をしました。それはこの体験談からいくらか汲み取れるでしょう。考え方も若干変わったと思います。些細な事にはこだわらなくなったし、常識というものの尺度が幅を持ってきました。長かったサラリーマン生活から定年後の平均20年間をどう生きるか、この転換期にまったく違った世界で過ごした2年間は、たとえ退職金を全部はたいたとしても価値の余りある悔いの無い貴重なステップだったと思います。
もう海外で生活するチャンスは無いと思いますが、英語はインターネットを例にとっても世界共通語としてますます重要になってきており、私のセーレムに対する愛着は以前にも増して強くなっていますので、ここの人達とスムースに通信するためにも英語の勉強は続けるつもりです。私の好きな言葉で最後を飾ります。
"It is never too late to learn!"